バレエは、イタリアの宮廷舞踊に源流を持ち、フランスで育って、ロシアで花開いた。バレエをイタリアからフランスにもたらしたのは、フランス料理同様、カトリーヌ・メディシスである。16世紀半ばのことで、我が国でいえば、信長より少し前の戦国時代にあたる。当時の宮廷文化の先進はイタリア北部の貴族社会で、そこから西欧各国の宮廷へと伝播されていった様々な文化の中の一例が、フランス料理であり、バレエであったのだろう。
興味深いのは、その先の、フランスからロシアへの流れである。クラシックバレエの世界は、フランスとロシアという2つの国の美意識と世界観の融合によって確立されたと言える。フランスのエレガンスとロシアのダイナミズムの融合と言い換えることも出来るかもしれない。
そんな仏露の文化的融合の象徴として、マリウス・プティパという一人の振付師がいた。フランスのマルセイユで生まれた彼は、若かりし頃にスペインで活動し、縁あってそこからロシアに移り、クラシックバレエの発展に偉大な足跡を残した後、ロシアの地で生涯を終えている。彼は、そのロシアの地で、バレエを、現在我々が認識している形の舞台芸術として確立し、「クラシックバレエの父」と呼ばれる存在となった。
プティパは、1818年、南仏の港町、マルセイユで生まれた。1818年といえば、我が国の文政元年で、浮世絵や滑稽本等の江戸の町人文化が爛熟した化政文化真っただ中の時代である。
プティパの両親は、共に舞台芸術家であった。父ジャン=アントワーヌは、プティパが1歳の時、ブリュッセルのモネ劇場のバレーマスターとなり、以後もヨーロッパの各地でのバレエのプロデュースを生業とした。プティパ(マリウス・プティパ)には3歳年上の兄リシュアンがおり、兄弟共に父からバレエを習ったが、ダンサーとしての才能は、兄リュシアンの方が上だったようで、リュシアンは早いうちからその才能が舞踊界で注目されて、パリ・オペラ座のエトワールになり、ジゼルの初演で主役のアルブレヒトを演じている。リュシアンの優雅さは観客を魅了し、当時評価が低かった男性の踊り手の中でも、別格の扱いを受けたようである。
弟であるマリウス・プティパもダンサーとなり、13歳でブリュッセルのモネ劇場で初舞台に立ったが、兄のようなスターダムには登れず、また、所属した劇場側の事情等で、その地を去らねばいけない不幸にも何度か見舞われた。プティパが17歳だった時にベルギー革命が勃発し、彼は、慣れ親しんだモネ劇場を捨てて逃亡せざるを得なくなり、フランスのナントの劇場に移った。その後、プティパは、ボルドーの劇場に移ったが、この劇場も経済破綻の憂き目に遭い、プティパは、スペインのマドリードに行くことになった。
マドリードでは、シルコ劇場で職を得た。プティパ、25歳の時であった。このマドリード時代に、スペイン舞踊も習得したプティパだったが、ある時、恋愛沙汰がきっかけでフランスの外交官と決闘事件を起こしてしまった。愛する女性を巡り決闘を挑むのは当時の貴族社会では男の誉れでもあったようだが、相手が外交官というのが良くなかった。プティパは指名手配者となり、マドリードを逃れ、フランス、イングランド、スコットランドへと逃避行を続け、遂にはロシアに流れ着いた。
プティパがロシアのサンクトペテルブルグに渡ったのは1847年、29歳の時であった。プティパは、ロシア帝室劇場でダンサーの職を得たが、彼は、ダンスよりも振付の分野に自らの活路を見出したかったようである。しかし、彼が所属するロシア帝室劇場には、王室がフランスからジュールペローという人物をバレーマスターとして招聘していたため、プティパには振付を任せてもらえない状況が長く続いた。その間もプティパは、パリのオペラ座で踊る兄リュシアンから情報提供を得ながら、振付の研究を続けた。
プティパに振付師としての活躍の機会が漸く巡ってきたのは、彼がサンクトに来てから12年もの月日が流れた後、41歳の時であった。プティパは、“ファラオの結婚”という作品のプロデュースで頭角を現し、追って“ドン・キホーテ”も世に送り出した。
“ドン・キホーテ”は、プティパ自身がダンサーとしてスペインに滞在し、スペイン舞踊の習得にも励んでいた経験が大いに反映されている。ダイナミックな振付による、エネルギッシュで華やかな踊り。南国らしい、陽気で明るい雰囲気。
バレエ“ドン・キホーテ”の大きな見せ場は、ヒロインキトリとその恋人バジルが、二人の結婚式で踊るグラン・パ・ド・ドゥ(Grand Pas de Deux)である。男女のペアが、4曲構成の中、男女それぞれに、そしてデュエットで、艶やかに踊る。プティパによって生み出されたこのグラン・パ・ド・ドゥによって、バレエの舞台がぐっと優雅で華やかなものになった。
プティパは、踊りそのものをより前面にフィーチャーすることで、バレエを、歌劇とも演劇とも異なる独自の舞台芸術として発展させた。自身もダンサーであったプティパは、究極まで突き詰められた踊り手の技術を、舞台の見どころの中心に据えた。
それまでのバレエでは、物語性も重視され、一部セリフもあったようだが、プティパは、踊り自体のフォームの美しさをより強調した舞台構成とし、物語に直接関係なく、踊りそのものを観客に楽しませるシーンも多数挿入し、芸術性を高めた。
バレエは、フランス本国では衰退期に入っていたが、プティパの新たな演出により、ロシアの地で、再び大きく花開いた。ロマン主義を基調としたフランスのロマンティックバレエに対し、プティパによって生み出された新たなスタイルは、クラシックバレエと呼ばれる。
プティパの真骨頂は、なんといっても、「眠れる森の美女」「白鳥の湖」「くるみ割り人形」の三大バレエのプロデュースである。いずれも作曲はチャイコフスキーで、このために曲を書きおろしている。
プティパは、バレエという舞台芸術の流れを大きく変え、その発展に大いに貢献した。驚くべきは、彼が、三大バレエのプロデュースに携わった時、既に70を超えていたという点である。ダンサーとしても、振付師としても、自分の思うように出来ない時期が長かったプティパだが、晩年になって大輪の花を咲かせ、世界に名を遺す存在となった。
プティパの生涯を辿ってみて思うのは、“自我作今”という言葉である。音は“じがさっこ”で、“我ヨリ古(いにしえ)ヲ成ス”と読み下す。
自らが、新たな時代の潮流を作るということであり、それは、道なきところに道を作るという意味でもある。当然、険しい道のりであろう。その過程においては、採算が合わないことも多いと思われる。そんな困難を乗り越えて突き進んだ者のみが到達する境地。それが自我作今なのかもしれない。
プティパは、そんな、決して楽ではない道を歩き続け、齢70を超えて、時代を変えるような大きな仕事を成し遂げた。そういう人生もあるのだ。そう考えれば、人生とは、誠に痛快なものである。